「データが示す『これから起こること』」が副題。「人口減少経済はどこへ向かうか」――労働市場を起点に激変する経済全体の構造を考える。
過去数十年、大量の労働力が労働市場に流入する中で、多くの企業は必要な労働力を安い価格でいくらでも確保できる環境にあった。しかし人手不足が深刻化し、賃金上昇の動きが広がる。女性や高齢者の就業率は急速に上昇し、働くのが当たり前。先進諸国の中でも、高齢者や女性が最も多く働いている国となり、短い労働時間で、以前と遜色のない給与を得ている人も多くなっていく。これまでのデフレの時代、需要不足が深刻だったが、これからは医療・介護、エッセンシャルワーカーなどを中心にサービスなどの需要が豊富にあるにもかかわらず、それを提供する人手が足りなくなる供給面の制約が問題となる。人材獲得競争が活発化し、危機感を持った企業が生き残りをかけ、デジタル化、経営改革に取り組めば労働生産性は上昇、物価は上がるが、賃金がそれ以上に上がる。その賃金上昇がインフレの要因になる。経営の厳しい企業は、市場からの退出を余儀なくされる。
これまでと全く違う社会が「ほんとうの日本経済」として現れるというわけだ。著者は現場を歩き、リクルートワークス研究所における「未来予測2040」プロジェクトの研究成果の一環として、地に足がついた分析と提言を行っている。
第1部は「人口減少経済『10の変化』」――。「(変化1)人口減少局面に入った日本経済」「(2)生産性は堅調も、経済成長率は低迷(経済低迷の主因は労働投入量の減少、総労働時間数の減少がGDPを減少させる)」「(3)需要不足から供給制約へ様相が激変(人手不足はエッセンシャルワーカーを中心に深刻化)」「(4)正規雇用者が増え、不本意非正規が減る(特に若年労働市場)(非正規雇用者の処遇改善が進み賃金上昇のスピードが速い)」「(5)賃金は上がり始めている(実質の年収水準は下がっているが、近年では女性や高齢者の短い時間で働く人は増えている。時給水準は2010年代半ばを境に急上昇基調)(地方、中小企業、エッセンシャルワーカーから賃金上昇の動きが広がる)」「(6)急速に減少する労働時間(高まる余暇への選好、減る残業時間)」「(7)労働参加率は主要国で最高水準(男性も女性も高齢者も) (低・中所得者が大幅増大、年間200万円以下の給与の人が2000年の825万人から2021年に1126万人に、200~400万円の層も1464万人から1696万人に。貧困問題の深刻化ではない)」「(8)膨張する医療・介護産業」「(9)能力増強のための投資から省人化投資へ」「(変化10 )人件費高騰が引き起こすインフレーション(労働集約的なサービスの物価は上昇している) (輸入物価高騰による物価上昇から人件費高騰が牽引する物価上昇へ) (過度なインフレーションを防ぐため、企業のイノベーションが必要)」」・・・・・・。
第2部は「機械化と自動化――少ない人手で、効率よく生産するために」――。現場を歩き、労働の実態について分野別に紹介している。「建設 現場作業の半分がロボットと」「運輸 自動運転は幹線輸送から」「販売 レジ業務は消失、商品陳列ロボットが普及」「接客・調理 デジタル化に伴い、セルフサービスが広がる(老舗旅館の取り組み、部屋食など人手がかかるサービスを廃止し、週休3日を実現)」「医療 非臨床業務の代替と専門業務への特化」「介護 記録作業から解放し、直接介助に注力する体制を(排尿予測と睡眠のデータで見守り――巡回の回数が激減)」」・・・・・・。
第3部は「人口減少経済『8つの未来予測』」――。「予想1 人手不足は、ますます深刻に」「2 賃金はさらに上昇へ」「4 人件費の高騰が企業利益を圧迫」「5 資本による代替が進展(省人化)」「6 生産性が低い企業が市場から退出を迫られ、合従連衡が活発化する」「7 緩やかなインフレーションの定着(賃金水準の上昇で人件費が上がり、企業はコストも価格に転嫁せざるを得ない)」「予想8 優先順位の低いサービスの消失」」・・・・・・。
そして、「構造的な人手不足が、企業の変革と日本経済の高度化を要請する」「慢性デフレのなか需要の喚起が必要であったが、これからは、経済全体の供給能力をいかに高めるかだ」と言い、政策的論点を7つあげている。「外国人労働者をこのまま受け入れるのか」「企業の市場からの円滑な退出をどう支援するか(個人保証問題等)」「地方都市の稠密性をいかに保つか(コンパクト+ネットワーク、集住)」「デジタル化に伴う諸課題にどう対応するか」「自国の比較優位をどこに見いだすか」「超高齢化時代の医療・介護制度をどう構築するか」「少子化に社会全体としてどのように向き合うか」――。
激変する社会のマグマが人口減少・少子高齢社会、特に人手不足として噴き上げている。時間軸を持って、今何をなすべきか。どういう岐路なのかを問いかけている。
「私たちは働き方をどう変えるべきか」が副題。2024年問題は建設、輸送などの本格的人手不足の問題。2025問題は、団塊の世代が75歳以上になり、認知症が700万人、空き家が全国で900万近くになる問題。ともに人口減少・少子高齢社会の深刻化、人手不足時代の本格的到来を意味する。
これまでとは全く違う社会。少子高齢化による人手不足と、デジタル化の進展による急激な人余りが同時に起きる社会だ。10年前、冨山さんは「なぜローカル経済から日本は蘇るのか――Gと Lの経済成長戦略」を著し、グローバルの世界とローカルの世界を区分して観察し、GかLがではなく、 Gは Gとして、LはLとして最適な成長戦略を選択・遂行していく道がいかに開かれるかを具体的に提示した。特にローカル経済圏の成長戦略は具体的で刺激的であった。それから10年、少子高齢化による深刻な人手不足とデジタル化の進展で、その問題提起は、まさに日本経済の反転攻勢、地方創生、賃金アップによるデフレ脱却と、庶民の幸福の実現の急所であることを鮮やかに示す。より多くの人が読み、意識改革と具体的行動に踏み出すべき好著だ。
人手不足は、ローカル産業で生じ、人余りは、グローバル産業で顕著に起きる。デジタル化の進展で、これまで日本が「少しでも良い大学を出て漫然とホワイトカラーサラリーマンになる」「終身雇用制」はこれから通用しない。「賃金よりも雇用(低価格戦略でビジネスを守り、余剰人員を抱えたまま経営を続ける低付加価値労働生産性戦略) (雇用を守り、従業員に賃金上昇を我慢させる)」というこれまでのやり方は通用しない。デフレ的安定からインフレ的均衡へ変わっていけるか。人の取り合いとなるから、「人手不足」は「給料不足」は如実となる。しかも人手不足時代は労働移動しても失業にはならないという時代だ。キーワードは高付加価値労働生産性。時代は、「コペルニクス的大転換」が求められていると指摘する。
「グローバル企業は劇的に変わらざるを得ない」――「競合他社にはできないコアコンピタンスによって、戦うフィールドと戦い方を選べば高付加価値ビジネスモデルで戦っていける」「『ややこしさ』に日本の勝ち筋がある」「漫然とホワイトカラーは淘汰される」「「DXとCXで変えられる」・・・・・・。
「ローカル経済で確実に進む『人手不足クライシス』」――。「ローカル経済の主な担い手・エッセンシャルワーカー(医療、介護、交通、インフラ、物流、公共サービス、小売り、農水産)。この付加価値労働生産性と賃金と消費力を押し上げることが、持続的な経済成長再生へのただ一つの道である」「人手の余剰が続くホワイトカラーは、エッセンシャルワーカーにジョブシフトすることを前提に、新たな中間層を形成することを考えるべき(多様な人生を肯定して、中産階級に押し上げる)」「インフラの担い手対策。需要密度を維持するため『集住』、コンパクト&ネットワーク」「ブランディングに活路を見出せる農業・水産業・食品と観光の重要性」「医療・社会福祉部門も、付加価値労働生産性が決定的課題」「ローカルとグローバルに序列はない」・・・・・・。
「エッセンシャルワーカーを『アドバンスト』にする」――。「生産性と賃金が高くなるように」「高等教育や資格制度の改革・充実」「経営者のトランスフォーメーションとCX、DXは三位一体」「中小企業経営者の債務保証問題など、新陳代謝を阻む制度的要因を取り除け」「最低賃金を引き上げよ――今まではデフレ的均衡のバッファとして、非正規雇用を使って雇用を守ったので、企業が低生産性・低賃金モデルを選択、労働組合も目をつぶってきた」「地方には『昭和』が色濃く残っているから人が来ない。地方の方が仕事はあり、高賃金かつ令和な職場にせよ」・・・・・・。
「悩めるホワイトカラーと、その予備軍への処方箋」――。「根本的処方箋は自己トランスフォーメーション」「まずは自らの『付加価値』力の自己検証から」・・・・・・。
そして最後に「日本再生への20の提言」として改めてまとめている。全分野の「相当レベルの不連続性、革命性を持った経済と社会の改造が必要になる」と言っているが、その通りだと思う。
「やまと言葉で哲学する」「やまと言葉で<日本>を思想する」の著者の最後の著作。「日本語とは、ながらく書き文字をもたない話し言葉であった<やまと言葉>に、大陸より伝えられた漢字から『かな(カナ)』という表音文字をつくり当て、また表意文字としての漢字そのものも取り入れて、形成されてきた言葉である」。それに明治以降、悟性、弁証などの翻訳用語が作られ続け、さらに昨今、おびただしいカタカナ用語、IT用語、音楽用語などが加わり複合語となる。本居宣長らの国学者が行ったことは、漢意(からごころ)の概念化・分節化した言葉を基本に物事を客観的・抽象的に捉えようとする発想を排除して、やまと言葉のおだやかでみやびな秩序、発想を純粋な形で復活させようとした。本書は国学者とは違って、複合語たる日本語を踏まえた上で、「やまと言葉の持ち来たった他者や事物へのより具体的、より直接的な結びつきや関わりのあり方を、それ自体として確かめてみたかった」「そのことによって、改めて『活きた』『溌剌たる生の内容』を取り戻すことができる」と言っている。やまと言葉を見つめ直すことで、日本と日本人の思想・思考を掘りあてる倫理学者の素晴らしい著作で感動する。
なんと「やさしい」「柔らかな」「相手を思いやる」「美しい」「自己を律する」「しなやか」な、やまと言葉か。それに比して、なんと粗雑で荒々しく、理屈っぽく、正義を振り回し、押し付けがましく、時間に追われて生きてきたことかと思う。特に加速するAI ・ IT ・デジタル社会で情報叛乱に翻弄され、コスパ・タイパ社会で、言葉が加速的に乱れていることを痛感させられる。本書の意義は大きい。
「『もてなし』と『やさしさ』」「『なつかしさ』と『かなしみ』」「『ただしさ』と『つよさ(よわさ)』」「『いのり』と『なぐさめ』」の4章に分け、32のやまと言葉の語義が語られる。
「もてなし」――見返りを求めずに相手を遇する。謡曲の「鉢の木」、「心を込めて、懸命に相手を接待しようとする『もてなし』の精神は太宰の生涯を通しての性癖に近い倫理でもあり、人間なるものの尊さの証でもあり、日本文化の本質でもある」「どこまでも『おのずから』に、さりげなく、わざとらしくないような所作(利休の興ざめ)」・・・・・・。
「たしなみ」――「ある種の抑制・つつしみのようなものが働いている」「欲求と節制のほどよい加減(一定の品や格のある趣味や習い事に限定され、パチンコをたしなむとは言わない)」・・・・・・。「つつしみ」――心をひきしめ、かしこまること。「つつしみの心は自然の法則に合致する(天道をおそれてつつしむ)」・・・・・・。
「ほほえみ」――「顔でこそ笑っていたが、全身で泣いていた(芥川龍之介「手巾」)」「日本人にとっての笑いは、逆境によって乱された心の平衡を取り戻そうとする努力をうまく隠す役割を果たしている(新渡戸稲造「武士道」)」「ラフカディオ・ハーンの発見した沈黙の言語(日本人の微笑)」・・・・・・。「もったいない」――マータイさんの「もったいない」は、単なる倹約精神の言葉ではなく自然や物に対する畏敬の念が込められている。同様の意味合いの言葉は存在しないので彼女はそのまま使った、と言う。「こいしさ」――共にあり、一つ(一体)であるべき相手が、現にそうではないという距離感があったり、不在であったりするときに感じられる思いを基本としている。その意味で「恋しさ」とは「寂しさ」であり、どこまでも求め続ける永遠の思慕の感情でもある。
「いさぎよさ」――未練や執着、こだわりといった夾雑物のない心情のあり方、それらを払い捨てて処断する覚悟。「ただしさ」――ただ(直、唯、只)と同根で、あるべき理法に則るか否か以前に、まず自分の側が嘘偽りなく、純粋に全力をかけているかどうか、清明心、正直、誠、一生懸命、無心といった日本人に伝統的な心の純粋性・全力性を求める倫理観であると言う。この倫理観は理、法、決まりが前提とされる世界共通のものとは違う。「がまん」――仏教語。慢を戒める言葉だ。
「たおやかさ」――大丈夫が「立派な男、ますらお」に対して、「たおやか」は、優美でありながら対応力のある、柔軟でしなやかな強さ・確かさ。「たおやめぶり(手弱女ぶり)」を言う。「さようなら」――人生を「さようであるならば」と確認しようとすること。「それまでの自分のこし方を自分なりの言葉にし、いわば一つの物語のようにまとめ上げることによって、死というものを受容しようとすることである」。そして現在を確認・総括し、その先へと進んで行くことを表明する力のある言葉が「さようなら」だと言う。
大変な智慧宝蔵で、感動の著作。
ここは京都。見知らぬ街、僕の新しい街だった」――。大学に入学した数学好きの田辺朔。今も昔も変わらないようで、大学生活に馴染めず、漫然と授業を受け、バイトをしているうちに1回生の前期は終わってしまう。後期に入ったある日、旧文学部棟の地下、通称「キュウチカ」にある「バー・ディアハンツ」に、そのマスターをしている夷川歩から誘われる。夷川は学部の先輩だったが、朔は強引にマスターの役を押し付けられる。この学内では風変わりなバーを拠点にして、集う学生たちの現代の青春群像が描かれる。
サークル、恋愛、友人、学問、セックス・・・・・・故郷を離れて、大人の世界の入り口に投げ込まれた若者たちのときめきと不安と苦悩。まさにこれが現代の大学生の心象風景なのかと大変興味深く読んだ。
作者は小説すばる新人賞を高校生で最年少受賞した青年作家。しかも私と同じ愛知県出身、理科系で京都大学大学院という。大学の雰囲気、京都の街が映像として感じられ、50年以上前の学生時代とついつい比べてしまう。意外と「大学生の心象風景は変わらない」という驚きがある。大きく変わってるのは、昔は「政治色」が激しかったことか。デモ、立て看、アジ演説。大学は喧騒の中にあり、思想闘争・論争は日常的で激しかった。体育会系のバンカラも生きていた。しかし青春の不安と苦悩は本書を読むといつの時代も変わらないようだ。
「人は人を救えない。でも、場所は人を救える」――。田辺朔も友人の北垣晴也も、朔が思いを寄せ翻弄される野宮美咲、その野宮が求める夷川、劇団を立ち上げる三井香織、朔と後輩・日岡麻衣・・・・・・。皆、ディアハンツを拠点に、結び、結ばれ、衝突し、距離感を変化させつつ成長していく。そしてそれぞれが、青春の道を、まっすぐに歩み、「22歳の扉」を開けて進んでいく。
神森で5歳の男の子・真人が行方不明になった。真人はASD児だった。母親のシングルマザーの山崎岬、警察、地元の下森消防団などが、警察犬やドローンも投入し神森の最深部まで懸命に探すが足取りすらつかめなかった。11月中旬の森は、最低気温2度にもなり、安否が気遣われた。ところが1週間後、無事に保護され、不思議にも体力が温存されていた。
いったいこの空白の1週間何があったのか。ASDの真人は、「クマさんが助けてくれた」と語るのみ。岬と真人の叔父・冬也の懸命な調査で、4人の男女と一緒にいたことがわかってくる。それもリレーのように次々と接触、助けてくれたようだが、何しろ真人が「クマさんが助けてくれた」と歌ったり、「なくよウグイスへいあんきょう」とか「あかはとまれ、あおは雀」などと意味不明のことを言うだけでわからない。
しかしやがて、4人がだんだんわかってくる。男を殺し、死体を埋めるため森に入った松元美那、ユーチューバーで"原始キャンパー・タクマ"と称する戸村拓馬、暴力団の組から金を持ち逃げして追われる谷島哲、中学教師でいじめにあって自殺をしようと森に入った徳山理実。それぞれ深刻な事情を抱えた男女だった。さらに加えて、母親の岬には、ネットでの中傷、バッシングが浴びせられていた。岬と冬也はそれにも戦いを挑んでいく。
深刻な事件、森の中での極限状況・・・・・・。しかし、そこに繰り広げられる追い詰められた大人たちが見せる善意と愛情。葛藤の中で「生きる」意味を見出していく姿が、荻原浩さんの手によって心温まる作品となっている。ユーモアさえある。人間の生きる原点が、森と生物の息遣いの中にあることを感じさせる熟練の長編小説。