「私はこの世界の出口を見つけなくてはならない」「これは本当に現実なのだろうか? 『現実/非現実』切り替えスイッチのようなものがそのへんのすみっこにこっそり隠されているのではないか?」----。著者の小説で、最もわかりやすく、すっと読めたと思う。実体とメタファー。洗練された文章で、現実と夢の世界を交差しながらも、途切れることなく、違和感なしで没入し、最後の「母殺し」の葛藤と逡巡、緊迫感に引き込まれた。絵本のようでもあり、ミステリのようでもあり、生死の世界のようでもある。
夏帆は絵本作家の20代後半の独身女性。実家は浦和で足立の花畑に今は住んでいる。セットされたブラインド・デートで、「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが、正直いって君みたいな醜い相手は初めてだよ」と侮辱的言葉を投げつけられる。「この男が一体何を意図しているのか」・・・・・・。しかし、この後書いた絵本は、評判を呼ぶ。「文章も絵も、これまでのあなたの作風とはがらりと違っていて・・・・・・」と言われる。
「あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに」――夢の中に、ありくいが現れ、夏帆にそう迫る。新居の床下にありくいの夫婦が住み、「(花畑では)危険が迫っていた」と言う。残忍なジャガーに狙われ、ブラジルのジャングルを出て日本に来たと言う。そして「シロアリの瓶詰めを欲しい」と夏帆に頼むのだった。そして夏帆は「とぎや」の主人に入り込んだジャガーを殺すことに・・・・・・。
一方、実家では母親がどうもおかしい。「母親は知らないうちに、何か別のものになってしまったのだ」――。大胆な変貌。出てきたありくいに夏帆が聞くと、「母親はブラジルから逃げてきたシロアリの女王に身体を乗っ取られていた」のだった。
夏帆は思う。「私もひょっとしてホル(かつて夏帆の家で飼っていた猫)と同じように、私にとっての決定的な境界線、目には見えない路上の一線を踏み越えてしまったのではないだろうか」「一晩ゆっくり眠って目覚めたら、元通りの世界に戻っているとよいのにと夏帆は思う。ありくいも、ジャガーも、シロアリの女王も、『とぎや』の主人も、モーターサイクルの男も、そんな普通ではないものたち誰一人、何ひとつ存在していない、かつての懐かしい世界に戻りたい」と。しかし・・・・・・。
母とはずっと、どこか心が通わない、何かが挟まっている、目には見えない溝のようなものがあった。しかし、「シロアリの女王に心と身体を簒奪されてしまうことになった母」を救い出そうとするのだ。こしらえてくれた「とくべつな刃物」で、母の心臓を刺し貫かなくてはならない、「母をこの世界に取り戻すために」・・・・・・。それには、「母親と和解を遂げ、互いを信頼し合う。力を合わせ、共同でシロアリの女王と対決する」と夏帆は腹を決める。踏み出さなければ何も始まらない・・・・・・。
夢と現実----。それはつながっている。心の奥には何層にもわたって突き上げる層がある。科学の無意識層、仏法で言う末那識、阿頼耶識、九識・・・・・・。苦難は常にあるが、人は他の生命に助けられ、支援され、自己を乗り越え、乗り越えていく。逆縁の敵さえも善知識となり、人生の一部として宇宙生命の調和の中のリズムとなる。本書最後、夏帆の溢れる涙、涙はそんな感謝の涙と言えようか。
東野圭吾さんの遺作となった。意識して書いたとしか思えない。最後に草薙は、「それらを全部足した数だけ、人の生死に関する秘密を暴いてきたことになる。それが刑事の義務だと思っていたし・・・・・・だけど、俺が秘密を暴いたことで、きっと傷ついた人もいる。知りたくなかったことを知ってしまったと、警察を恨んだ人も少なくないはずだ。・・・・・・俺が、刑事としての終活をするに当たり、一度ぐらいは、仕方のないこと、と真相を呑み込んでもいいんじゃないかと思う」と言う。そして湯川は、「俺たちは、ずいぶんとたくさんの秘密を暴いてきた。そのためには、人々の感情など無視したし、君はともかく、僕などは最初からそんなものに興味がなかった。そんな僕に人の心も科学だと教えてくれたのが、あの事件だ。未だに答えを出せずにいる・・・・・・我々はあの事件について、真実を解き明かしていなかった。石神は、確かに人を殺した。では、その人物はどこの誰で、それまでどうやって生きてきて、なぜあの日、あの場所に行ったのか。それらを知らないままでは、真の解決とはいえなかった。でも、ついに答えに辿り着いた」と言う。代表作「容疑者Xの献身」の鮮やかで悲しい解決で、湯川がずっと心に抱いてきた強いわだかまりと疑念と悔恨。その蓋を開ける事件が今回起きたのだ。
スーパーで買い物中の刑事・内海薫が刺された。犯人は70歳ほどの老人・三崎茂久。薫の全く知らない男だ。男は階段を駆け上がり屋上から飛び降り自殺を図るが一命を取り留める。逮捕されるが黙秘が続く。湯川の冴え渡る推理で、内海に恨みを抱く若い女性・藤村紗穂が捜査線上に浮かぶ。19歳のスーパー店員だ。老人との関係は不明。
6年前、大型量販店の駐車場内で男性の絞殺死体が見つかった。特捜本部は、妻の藤村倫子を逮捕、動機は夫の娘へのおぞましい性加害。周到に妻と娘はアリバイ工作をしたが、それを崩したのが内海薫らだった。しかし、藤村凛子は獄中で自殺する。刺された薫と藤村紗穂は直接対決・・・・・・。恨みは、感情的にもより深くなり、より恐るべき復讐が・・・・・・。「復讐というのは何? いつ始まったの」・・・・・・。
一方、湯川と草薙は、三崎茂久の"ある持ち物"を手がかりに、「20年間、解けなかった謎」の扉を開く。三崎には香苗という娘がおり、事故死していた。三崎が藤村紗穂に自分の娘を重ね合わせて薫を刺したようだが、もう一つ、三崎には鶴巻和正という会社で同僚であった親友がいたことがわかる。厳しく辛い三崎と鶴巻の人生が絡み合う。そしてあの「容疑者Xの献身」の天才科学者・石神の考え抜いたトリックと結びついていくのだが・・・・・・。
東野圭吾さんの遺作。早すぎる。挿絵が時計と地球儀になっているのも、やけになんとも・・・・・・。
「生成AI時代の超倫理」が副題。「AIとは何か」「AIが人間のような倫理意識をもって思考し、判断を下せるのだろうか」「AIは我々人類にとって僥倖なのか」――。この現代最も重要な問題に、AIの第一人者が科学のみならず、人類学的、文明論的な知見から根源的に解き明かす。一神教から生まれたデジタル文明、ロゴスを起点とする西欧言語文明の咆哮がAI・デジタル社会として、核問題、地球環境問題として現れていることを実に根源的に剔抉する。凄みのある最重要の著作だと心の底から感じ入った。
「AIは人知を超えるという。だが、『人類の知性』とはそもそも何なのか? それはコンピュータによるデータ処理と等価なのか?――こういったテーマを考えるには『生命と機械の異質性/同質性』や『無意識領域ではたらく情動』という難問に取り組まなくてはならない」「少なくとも『情報』という概念を基礎から捉え直す学問が必要なはずである。さすればやがて、AIを踏まえた、新たな知的革命が起きるかもしれない」と言う。
第I部生成AIをめぐる疑問――。「脳型コンピュータの到来(第三次AIブームはビッグデータから。超AI論者は徹底した人間機械論者、記号接地問題は依然として解決されていない)」・・・・・・。「日本のデジタル敗因(オープン・システムに信頼・セキュリティーを危惧する日本人気質。世界の水平分業に日本はどう対処するか)」・・・・・・。「挫折した国産第5世代コンピュータ(ナイーブすぎる和魂洋才の海外科学技術導入戦略。統計的な解、確率計算の記号列に過ぎない生成AI。クオリア(感覚質)(喜怒哀楽、心のありさま)は脳科学が到達できない彼方にある)」・・・・・・。生きた人間は機械ではなく、生命機械論であってはならないのだ。
第II部デジタルAIとはそもそも何か――。文化人類学的考察から生成AIの本質を抉り出す。「一神教から生まれたデジタル文明(中沢新一、レヴィトロース。対称性の自発的破れ=ユダヤ人を救うユダヤ教・一神教と人類一般を救済するキリストの一神教。ロゴスによる普遍論理主義がデジタル文明や現代の科学技術に通底)」・・・・・・。「(ユダヤ人にとって)約束の地アメリカ(コロンブス、ロスチャイルド、ウェーバーと資本主義の精神。アインシュタイン、オッペンハイマー、そして核兵器へ進んだユダヤ=キリスト一神教に基づくデジタル物質文明)」・・・・・・。「科学と情報を問い直す(思弁的実在論からの批判、情報圏で部品化され消費者データを提供する奴隷のような人間。体験が作るアブダクション。データベース空間内は機械的な情報ばかりだが体験のような生命的な要素を加えていく情報学的転回ができるかどうか)」・・・・・・。
第Ⅲ部生命と機械をつなぐ――。「ネオ・サイバネティクスとは何か(対照的なノイマンとウィーナーの宇宙世界の捉え方。人間を含め生命体を非自律的・機械的な存在とみなす生命機械論のノイマン、一元的ではなく不確かを含む多元的な対象として宇宙世界を捉えるウィーナー。西田洋平の『人間非機械論』。マトゥラーナの機械と生物の異なりを科学的システム論的に示すオートポイエーシス概念)」・・・・・・。「基礎情報学というステップ(生命・社会・機械における自律と他律。機械は他律で人間は自律性と他律性を持つ2面的な存在。人間という生物は他律的ルールによる社会的制約を受けながらも、意味と価値を自ら主観的かつ自律的につくり出す存在。プロパゲーションという意味伝播)」・・・・・・。「生命的な超倫理をつくる(AIの倫理的課題①有害コンテンツ②ハルシネーション・幻覚③ 偽情報④クリエイターとの関係。特に美的価値や創造活動)」・・・・・・。「テクノロジーとは、ユダヤ=キリスト教の特異な宇宙世界観に発し、物質的な近代科学精神と進歩主義に基づいて国際的に普及した一形態の技術ということ」「21世紀のデジタル文明で希求されるのは新たな普遍倫理、いわば超倫理と呼べるものではないか」と言う。
「生成AI時代の情報学的転回」――。「やがてAIは意識や人格を持ち、人間をしのぐ知的存在になるのか(答えは『ノー』。たくさんの記号データを使用頻度の統計計算で関連付け、よくある文章や画像を作り出すだけ、本物の知性ではない)」「日本はなぜデジタル化で立ち遅れたのか?(DXはオープンなデジタル化であり、日本が遅れた原因は、端的に国民性ゆえである)」「AIは人間を幸福にするか?それとも人間に反逆して不幸にするか? (反逆など妄想。記号データを統計的に処理して出力しているだけの他律的存在に過ぎない。しかしフェイク、誹謗中傷、詐欺、過大な電力・冷却水、殺戮兵器、依存・・・・・・。負の側面、暗部は多い)」・・・・・・。
そこでどうする。「人間を機械化することに反対する倫理感を築く。機械情報ではなく、生命情報から出発しなければならない。言葉も歌も舞踏も絵画も全て生命情報が原点であり、デジタル文明社会において、それらを発現させる真の情報学的転回をはからねばならない。生命情報と科学技術を結ぶ作業、生命的な意味の多元性に迫るという作業だ」「生成AI時代における共通の倫理意識である『超倫理』の建設」「美と倫理、創造性、心の変遷や成長を反映した生命論的な情報美学」などの研究を示し、「情報学的転回による第三次形而上学革命」のメッセージを発する。
「最新物理学で探る『時』の正体」が副題。「21世紀を迎えた今、最先端の物理学は、人類史上初めて、時間の真の正体を捉えつつあるという確かな興奮の中にいます」「この本では、これまで人類が知り得た『時間』の本質を、ものの動きの理解、すなわち、運動法則の理解の中に求めながら、時間観の変遷を追体験していこうと思う」と言う。
「時間という概念そのものが物体の運動を説明するために設けられた仮説」――。「古典的時間観――ガリレオとニュートンが生み出したもの(等速直線運動の物体、慣性の法則、力と質量と加速度)」「時間の方向を決めるもの――『時間の矢』の問題(整った状態からバラバラのカオスへ、時間の方向はエントロピー増大の方向)」「光が導く新しい時間観の夜明け――特殊相対性理論(光速度不変の原理、光速は等速直線運動をするすべての人にとって共通である。絶対時間から相対時間へ、時間の遅れが示す時間と空間の一体性<時空>)」・・・・・・。
「揺れ動く時空と重力の正体――一般相対性理論(観測者がどんな運動をしていようとその人が見る世界の法則は変わらない。重力の原因は時空の歪みにある。物体が時空を曲げて『重力場』を形成することで、重力が発生する)」「時空を満たす『場』の働き――マクスウェルの理論と量子としての光(電流、及び、電場の時間変化は磁場の渦を生み出す=アンペール・マクスウェルの法則。アインシュタインの光量子仮説:光は波であると同時に粒子の集まりでもあり光を構成する粒子の運動エネルギーは、その光を波として見たときの振動数に比例する。光は量子である)」・・・・・・。
「ミクロ世界の力と物質――すべては、量子場でできている(光は電磁場の振動、光の出所は電子でエネルギーの運び役。電子もまた量子。物質も、光も力もこの世のあらゆる存在が波と粒子の二重性の特性を持つ量子からできている)」・・・・・・。そして「私たちが暮らしている時空は時間と空間の4次元に広がる空っぽの器などではなく、その一点一点たくさんの内部構造(内部空間)である量子場を備え、素粒子はその振動です。物質や力は(もちろん私たち自身も)時空そのものが持つ構造の発現なのです」「素粒子は場の振動で、粒子だと思っていたものは、場のハーモニーに由来する飛び飛びの構造が発現したものだったのです」と解説している。
「量子重力という名の大統一。時間とはなんだろう?(時間をその内に含む『時空』はそれ自体が揺れ動く動的な存在であると同時に、その各点各点に複数の内部空間としての『場』を備え、私たちの目には、場の量子振動が素粒子として、そして、場の共振が素粒子間に働く力として映るというわけだ」「宇宙開闢の瞬間には、時間でも空間でも量子場でもない何かだったものが、その進化の過程で役割が固定され、現在の時空や量子場が出来上がったのだろう」「時間は空間・物質・力を含む巨大な構造の一部であるということだ」と解説する。さらに「弦理論というアプローチ(世界の基本が粒子ではなく、長さを持った『弦』とする)」「時間・空間・物質・力のDNAを求めて」を語る。
「時空や量子場を含む巨大な構造の一部分」という時間の姿を、「最新物理学で探る『時』の正体」として解説する。
時は平安前期。藤原氏が伴氏(大伴氏)を追い落とした応天門の変の後。舞台は那ノ津(博多)、平戸、値嘉ノ浦(五島列島)から壱岐、対馬にかけての西海。金波銀波の裏には、海賊、商人、官人などが入り乱れての熾烈な生死をかけた戦いが繰り広げられていた。
海神の生贄となる巫女の少女・由良。由良が目撃した海賊に襲われた商人船から海に投げ出された巨大な櫃、その中にいた安曇福雄。多くの巫女を売り買いする巫女船の船長・赤名。船を襲い強奪することを生業とする島嶼の輩で高島の郷の頭目・宗継、年麻呂。西国九国ニ島の要・太宰府の少弍の在原安貞に仕える女官・伴真平、新しい少弍・元利麻呂。越智貞厚と新羅商人・王礼・・・・・・。海神の生贄を売る船が徘徊するとは尋常ではないが、新羅をはじめ通商が盛んに行われ、海賊が跋扈する荒々しい時代風景が生々しく描き出される。
そのなかで印象的なのは海、そして過酷な運命であるだけに貫かれる一筋の愛と忠誠心だ。「あー、そうか。不条理でままにならず、世の道理に合わぬあの船は海そのものだ。自分は、海のただ中に育ち、暮らしていたのだと、由良は唐突に理解した」「結局人の世では、不条理は柔らかな言葉や美しい衣で覆い隠され、目に見えづらいだけであった。それに比べれば、海の上は何もかもがむき出しで、善も悪も全てがごちゃまぜに刈り取られてゆくものであった。ならば、自分は偽りのない海を選ぶと由良は思った」・・・・・・。そして一筋の愛と忠誠心。高島の頭目・宗継のために体を張って生きる年麻呂。在原安貞にひたすら仕える真平。駆け落ちする香久女と僧の元昌。「年麻呂、真平、そして香久女。誰かを大切に思うあり方は、それぞれあまりに異なりすぎた。・・・・・・何かを願うとはこれほどに痛みを伴うものなのか。彼らのひたむきさが、強靭さが由良には恐ろしくすら思われた」・・・・・・。
澤田瞳子作品の中では、今までと違った荒々しい世界、そして千変万化する海を描いた力作。
