「脳が欲しがる本当の休息」が副題。「睡眠中は脳も休んでいるといわれるが、実は脳は眠らない」「睡眠は、あくまで体を休めるため、エネルギー節約のシステムである可能性が高く、脳は切り離して考えるべきだ」「脳は眠らない。眠らないけれど、いつも24時間コンビニのようにピカピカに掃除が行き届き、他の在庫も補充されている。深いノンレム睡眠の時、老廃物を洗い流し記憶の定着が行われている」「記憶のメカニズムで大切なのは『忘却の力』」と解説している。
それでは、「脳が欲しがる本当の休息」とは何か。それは睡眠ではない。日本は世界一の"短眠族"なのだ。「脳の回復には、睡眠より『刺激』だ。刺激がないと脳の認知機能は衰える」と言う。そして「不夜脳は無理をして24時間活動しているのではなく、『休まないことこそ、脳に最適な働き方』と言っていい」と解説している。
「睡眠は『脳疲労』を解決しない」――。脳は刺激をシャットアウトするような休息はそれほど求めていない。それよりも運動をしたり、言語を覚えたり、音楽を聴いたり、様々な「適切な刺激」を入れることがより元気な脳を作る、と言う。
そこで、「疲労知らずの脳の鍛え方」――。人間は「飢餓」に強くできており、食べ過ぎと運動不足がいけない。「間欠的断食で、脳を鍛える(疲れたときには甘いものというのは間違い。糖質は脳の疲れを癒さない)」。甘いもので、活力が戻ると言うのは脳の栄養補給ではなく、脳でドーパミンが出るからだと言う。「脳の糖分」にはクルミが良い(オメガ3脂肪酸が豊富)。脳を鍛えるには「外国語学習」「読書(内部刺激が脳を動かし、より深くより長く前頭前野を動かし、没入するなら読書がすごい脳トレになる)」「スマホゲーム」「ポケモンGO」「ダンス(リズム活動が脳に良い)」「目隠し、目を瞑る」「麻雀」・・・・・・。なるほどと思う。それに体のどこかの「慢性炎症」を治療しておくことが大事だと指摘している。
ただし、「『脳は眠らない』と主張する本書は、『断眠のすすめ』ではない。眠らなければ命が危ないのだ」と言う。そこで疲れる前にやって疲労をためない「脳の疲労を癒す方法」を示す。「まず横になり、副交感神経優位な状態にすること」「瞑想。なるべく外部からの刺激をシャットアウトする」「40ヘルツの音波刺激」「森林浴刺激」「ジャンクフード中毒など依存食物刺激を避けること」「ハーブ刺激(お疲れさまの一杯はお茶で良い)(緑茶もハーブの一つ)」「入浴サウナ刺激」「脳のリラックスには『冷却』が基本」「安心刺激。予測的中やお約束のパターンは安らぎのストーリー」・・・・・・。
都市伝説が溢れているが、著者は機能脳神経外科医の脳の専門家だが、プロの麻雀士でもあるという。現場からの「脳が欲しがる『刺激』と『癒し』の本当の休息」のアドバイス。
昨年秋に放送されたNHKシリーズ。「国文学、民族学を通じて日本を、日本文化を見つめた巨人・折口信夫(1887~1953)」をあらゆる方向から描き出す。まさに凄まじい巨人だ。
欧米の文明・文化を急速度に受容した明治日本。しかしそのなかで、1900年を前後して、「日本とは、日本人とは」を問いかけ、世界に発信した知識人がいた。内村鑑三の「代表的日本人」(1894年)、新渡戸稲造の「武士道」(1899年)、岡倉天心の「茶の本」(1906年)、そして牧口常三郎(後に創価学会初代会長)の「人生地理学」(1903年)。これを日本文化論の第一世代とすれば、「鈴木大拙、和辻哲郎、柳田國男、折口信夫が第二世代」「彼らは上層よりも下層部の人々の生活を、都市よりも田舎の人々の生活を中心とした日本文化研究を行った」と言う。それは「近代の学問が止めどもなく細分化する『切り裂く知性』なのに対し、人格形成の『包み込む知性』」であり、折口信夫は国文学研究、民族学研究、芸能研究、宗教研究、神道研究、さらに釈迢空の名の歌人であり、小説も珠玉の評論もする巨人であった。それはいずれも、神と人との関係を観察してゆくことである。また宗教文化を肯定的に捉えるものであり、日本の伝統文化を無視して進む近代社会への抗議者でもあった。
「日本で最初の『万葉集』の全口語訳の人で、歌の数は4516首、全20巻に及ぶ。声に出して読むと、歌舞伎の台詞のように面白く、しかも借金を返すためにやったというから度肝を抜く。
柳田國男の「祖霊」論と折口信夫の「まれびと」論の激突が紹介される。祭りも芸能も他界、「あの世」からやってくる「まれびと」、常在しない外部から来る神様をもてなすという行為から生まれる文化だと言う。
「かそけき詩人、怒りの詩人」「常に弱者の側に立つ人(反権力的なスタンス)(アラヒトガミ事件)」「異端的知性のアイドルになっていった人」「大阪のボン、都会の趣味人」「愛に生き、羽咋に眠る人(石川県羽咋市に墓)」「日本的なるものを求めた人(日本文化は外国文化を受け入れて、自分たちの生活や思考、感覚に合わせるよう改善する文化)」「折口信夫の残した遺産」・・・・・・。まさに巨人だ。
「いま戦争を語らなきゃいけない」が副題。著者の「平和国家として歩んだ約80年間の政治の変容と世界における日本の現在地」の論考、保阪正康さんとの対談、「復刻 57人の戦争証言」の三部作よりなる。現在のロシアのウクライナ侵略、ガザでの戦闘を見ても、これまでの枠組みを覆す戦火が続き、北東アジアの安全保障環境の悪化と日本の抑止力強化への動きが顕著になっている。「戦争ほど残酷なものはない、戦争ほど悲惨なものはない」――そうした叫びが、憲法や非核三原則など強固な骨格を形成してきたが、昨今はそうした思考の骨格もなく、リアリズムの名のもとに軽く扱われることが危惧される。昭和100年、戦後80年、何が形骸化をもたらしているのか、日本の現在地とその思想はいかなる変化の中にあるのか。それを問いかける論考・対談・証言だ。
その意味では、保阪正康さんへのロングインタビュー「太平洋戦争への道程と非戦のための記憶の継承」は歴史を俯瞰して端的、急所を語る。「暴力を恐れた明治政府」「5つの国家像を模索した岩倉使節団。薩長の幕藩体制支配とそれを批判する自由主軸の土佐」「軍事主体となった背景(不平士族や自由民権運動を軍事で鎮圧)」「山縣の主権線と利益線で外へ」「政府と議会の関係が変わった。協力して富国・強兵」「賠償金を原資に軍備拡張、戦争がビジネスに。日清・日露・第一次世界大戦でも」・・・・・・。戦争と軍備が歴史経過を追って語られる。
そして、「戦争と皇室」が語られる。「明治政府による天皇の神格化」「戦争回避を願う天皇」「個人と天皇の一体化」「天皇の戦争責任」・・・・・・。「責任はあるに決まっている」が、「天皇は責任を取る立場ではありませんでした」と言う。
「敗戦のあの時に国民が誓った『もう戦争はしない。戦争はこりごりだ』という意識に亀裂が入っているように感じます(前田)」との問いに、保阪さんは、「前尾繁三郎は『保守は1日1日、革新することをいうのだ。1年先や2年先のことを暴力的にやるのではない』」「福田赳夫さんも非戦の人でした」「護憲だった後藤田正晴さん。二度とああいう帝国主義的な戦争をしない、内閣を暴走させないということを身にしみて思っている世代」。「やっぱり自民党がバランスを働かせていたと思います」と言っている。野中さんも古賀さんも・・・・・・。
「二度と戦争をしないために」----。「軍事で失ったものを軍事で取り返す。軍事的復讐。これは戦間期で醸成される思想」が歴史的に行われてきたが、日本は戦後、「戦間期の思想を、憲法も歴史教育も、日常の生活でも消し切っている。それは誇ってよい歴史だと思う」と言う。「日本は江戸時代の260年で外国と1回も戦争をしなかった。明治から昭和までの77年間はひどいことをやったが、その後は戦争していない。----単に被爆国だということを叫ぶことではなく、それを教訓化したときに、どういう哲学や思想を生み出したのか。それが世界的に通用するのか。まだそれを生み出すことはできていませんね」「80年間の非戦を財産にする使命。この強みを思想化していくこと、あるいは生活の中に持ち込んでいくこと、何かの先駆的な意味を持ってここから何か生み出すこと」の重要さを示している。「民主主義の後には、いつも影絵のようにファシズムがついてくる。民主主義は手ぬるいし、手間もかかるし、鬱陶しい。早く結論を出せ、勇猛果敢に----」。これがファシズムで、「新しい戦前」の意味だと警鐘を鳴らす。そして石橋湛山、桐生悠々、特に石橋湛山。「石橋と吉田の考え方の分かれ目は、権謀術数の中で生きる政治家と、信念を通す気骨のある男との対立だったと思う」「石橋湛山の憲法9条凍結論。9条は人類の理想である。しかし今すぐこうはならない。現実に対応してやっていこう」・・・・・・。
「復刻 57人の戦争証言」――。2.26事件、日中戦争、真珠湾攻撃、本土初空襲、総力戦と資源、ガダルカナル等でほころび、学徒出陣、東京大空襲、本土決戦、敗戦・・・・・・。「いくら戦争じゃからと言ってここまでやってええもんじゃろうか。日中戦争でも被爆でも皆殺しの地獄を嫌というほど経験した。絶対に戦争を繰り返さんでくれというのは、私の心からの願いじゃ」「一命は取りとめたが、耳と鼻は焼け落ち、まぶたも口も閉じない・・・・・・。心より 笑いし日々の有りしかな 傷痍軍人の叔父は逝きたり」「1942年4月18日、ドーリットル隊による本土初空襲、1年後の4月18日、山本五十六長官密林に突っ込み戦死」・・・・・・。とても言葉にできないほどの戦争の残酷と悲惨が語られる。
「生き残ったものが戦争を知り、理解し、継承する責任があると私は思いますね」・・・・・・。この言葉のギリギリのところまで来てると思う。
パンチラインとは名台詞。ドラマや映画、漫画などにはすぐ思い出せる心に残る名台詞がある。それを言語学者の著者が、名台詞の名台詞たる所以を言語学の観点から解説する。帯には「エンタメ8割、言語学2割。かなり笑えて、たまに勉強になります」とさりげなく書かれている。なるほど、印象に残っているというのは、考え抜かれているんだなぁ、セリフの構造にしても助詞ひとつにしても作者のセンスで選び抜いているんだなぁ、と感じる珍しい角度の本。
ドラマや映画、漫画は論文ではない。生きた会話の言葉であり、そこで使われる日本語は主語もなければ目的語もないことが多い。話し言葉の裏には含みがあり、共通した背景がある。演説でも、短い言葉、断定的に言えば力があるし、リズムの重要性もあるし、間合い、センテンスの並びで通じ方は全く変わる。
「タッチ」の中から「めざせカッちゃん甲子園」が取り上げられる。「気づくのは妙な語呂の良さである。これ全体で七五調になっている。・・・・・・4拍子のリズムで読むことができる」と言う。
「機動戦士ガンダム」では、「『圧倒的じゃないか、我が軍は』など、倒置法がよく使用されている。倒置法を演劇やドラマで使うと、観る人の注意を惹きつけることができ、流れにメリハリが出る」と言う。さらに「偉い人には、それがわからんのですよ」の終助詞「よ」の使い方。「『よ』という終助詞をつけるかつけないかで、セリフの印象を大きく変わる。『ガンダム』に名言が多いのも、こういったこだわりの賜なのかもしれない」と言う。
「不適切にもほどがある!」では、時代のギャップ。「『よろしいですか?』を『よろしかったですか?』と言うようになったのは、90年代の後半ごろなので、市郎が違和感を抱くのは当然だ」や「やっ・・・・・・てますね」の面白さを解説する。
「地面師たち」でリーダーのハリソン山中(豊川悦司)の言う「最もフィジカルで最もプリミティブで、そして最もフェティッシュなやり方でいかせていただきます」の「フ」「プ」の子音部分の両口を使っての「両唇音」に注目する。なるほど知的で美しいパンチラインだ。
「極楽女王」のダンプが「いちいちうるせえんだよ」「しょうもねぇヤツがよ!」「今行くからよ」と言い、長与と飛鳥が「早くこっち来いよ!」。ここでも「よ」の効果が語られる。普通気づかないが、なるほどだ。
「ミステリと言う勿れ」では、「『こ そ あ ど』にウソがけっこう出るんですよ」を扱う。容疑者が「そこ」と言うか「あそこ」と言うか。「そんなやつ知らねーよ!」と答えるか、「あんなやつ知らねーよ!」というかで犯人がわかる。これまた確かにだ。
こんな具合に、次々にあぶり出されるセリフ分析。なるほどの連続。漫画のパンチ力の強さ、脚本の緻密さ。プロの鮮やかさを際立たせており、極めて面白い。
大田南畝(寛延2年~文政6年) (1749〜1823)の生涯。「まいまいつぶろ」「またうど」「御庭番耳目抄」など、第9代将軍徳川家重、第10代家治、大岡忠光、田沼意次らを描いた著者が、文筆の才で江戸の名声をほしいままにした狂歌師であり、御家人の大田直次郎(南畝、蜀山人)を描く。一連の著者の著作、昨年のNHK大河ドラマ「蔦重」や沢木耕太郎「暦のしずく」の馬場文耕など、庶民文化の開花とその窒息が露わになった時代――。特に天明期(1781〜1789)には、浅間山大噴火、天明の大飢饉、田沼意次の失脚(1786)、松平定信の緊縮財政・風紀取締まりの「寛政の改革」が始まった。大田南畝はこれを機に狂歌の筆を擱き、幕吏としての職務に励み、随筆などを執筆するようになった。本書の帯に「守るべきは文化か、家族か」とあるが、そこには、家を守り継承しようとする家族愛があった。
平賀源内から高い評価を受けた大田直次郎。その才は冴え渡り、平賀源内、平秩東作、唐衣橘洲、元木網(もとのもくあみ)、朱楽菅江(あけらかんこう)、蔦屋重三郎、塙保己一、恋川春町、秋田藩の朋誠堂喜三ニらと深い交友関係を結ぶ。「享保の御改革で、書も学問も好きに許されるようになって幸いじゃ。御徒など書でも読まねばやっておられぬ」「大らかな世でございますな」「幕臣であろうと狂歌に関わることが許されており、そこには、侍も商人もない」「狂歌はよろしゅうござるな。笑いというものは、その場の憂さを救う」「正統の和歌に対し、貧しさに我が身をこと寄せて笑い飛ばすのが狂歌だ」・・・・・・。
ところが、天明5年に田沼意知が殺害され、その後、文物の花を咲かせた田沼意次が失脚、続いて10代家治が亡くなる。「上から押さえつけてくるような世に、目を瞠るほどの狂歌が詠まれるはずはない」「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶというて夜も寝られず」「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」・・・・・・。
「誰がここまでになった狂歌を、このまま御上の命で終わりになどさせたいものか」と直次郎は思うが、他の誰とも違う事情が直次郎にはあった。「あの定吉に御徒の御役を全うさせ、食うに困らぬ道を保っておかねばならない」「私は政事向きの歌は作りません。・・・・・・狂歌というのはね、蔦重さん、もうしっかりと出来上がった、遥かな高みにあるものを私らの暮らしへ引き下ろして、その落差を笑い飛ばして、皆で明るく生きるためのものなんだ。・・・・・・月がそうでしょう。澄ましやがってと私らが毒づいたところで、月は眉一つ動かさぬ。狂歌は、そんな相手だからこそ向かっていくんですよ」・・・・・・。戯作者、狂歌師、蔦重らは次々と弾圧され、死んだり、江戸払いとなる。そして「狂歌も狂文も書けぬ世に、直次郎は立身を目指す幕吏になった」のだった。
しかし、松平定信の治世もわずか8年で終わる。直次郎は南向きの田の南畝。そして大阪へ、また長崎へと赴任。狂歌を捨てて幕吏と生きるが、「私は狂歌も狂詩も狂文も好きで好きでたまらぬのです」として蜀山人(銅の異名の蜀山居士から)と名乗る。江戸に帰り、家族とともに75歳まで生きた。「雀どのお宿はどこか知らねども、ちょっちょと御座れ酒の相手に」・・・・・・。
狂歌の才は溢れるほどだが、変わりゆく時代を生きる人間の軸が定まっている姿が伝わってくる。
